ホスピタル病院

自分をモヒカン社畜だと思い込んでいる17歳JKのブログ

サヨウナラ、思い出になる二人。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想【ネタバレ有】

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今万感の思いを込めて汽笛が鳴る。さらば、エヴァ(挨拶)

はい、見てきました。25年もの歳月をかけてようやく完結となる本作を。
そしてしたためました。本作を見た感想を!

ネタバレ薄めの前半とネタバレ込みの後半でお届けするが
まだ見てない人ははよ映画館へ行け!
前半だけ読む判断は任せるがあんまお勧めしない!後半は読むなマジで!
行ってからもう一回この記事を読んでアクセスに貢献してくれ!

と、いうわけですべてに決着がつく
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の感想!

サービスサービス詰め込んで書いたので読んでくれよな!

 

 

□さらば、少年の日よ。

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まず早速だが正直なところ、
シンエヴァは単体の映画としてはかなり出来が悪い。
エヴァQとシンエヴァは出題編と回答編、というツイートを見たが
そんな上等なものでは決してなく、スター・ウォーズEP8とEP9の関係に近い。

EP8はEP7/EP9とは別の監督がハチャメチャな展開や設定を付け加えまくって
”やらかしてしまった”。
EP9は元の監督が引き継いでそのケツ拭きをやらされた不幸な作品であるが、
エヴァに関しては一貫して庵野監督のせいであり自業自得である。

このやらかしてしまった前編エヴァQのケジメを付けるために
Qにはなかったいろんな設定や事実があとからあとから生えてきて
えっちらおっちら何とか格好をつけた、という印象が強い。

流石に具体的に言及するのは避けるが、
Qでもうちょっとシンエヴァへ向けた伏線を張っておけば納得はいっただろうにという要素が大量にある。
というかぶっちゃけ、Q時点でシンエヴァ考えてなかったろ庵野監督。

また、EP9は終わらせるために様々なタスクを高速に強引に進めてたんだけど
シンエヴァはそもそも伏線を放置したり、劇中で説明すべきことを煙に巻いたりと
やるべきタスクを極力減らしてなおテンポが悪く、
2時間半という長丁場で延々長々と垂れ流してるなぁという印象。
もうちょっとカットしていけば2時間以内に収まっただろ、と。

ヴィレ製の様々な便利アイテムが急に登場したり、
今まで伏線すらなかったような設定が飛び出して来たり、
様々な内容が描写不足、説明不足で無理やり進行していくため
本当に急ごしらえで作った物語だ
非常に悪い邪推をするとシンウルトラマン作るために大分適当に作ってない?というか。
正直、少なくとも単品の映画としてはEP9よりは面白くない。

あと凄くシンプルに戦闘に関しては面白さが全くないです。
Qの頃からそういう兆候はあったんですが
何やってるかわからんことを延々やってる感じ。
いや流石に銃を撃ってるなとかはわかるんですがエフェクト過多でメリハリも爽快感もねぇ。
派手な音とエフェクトをバンバン流すのが戦闘演出の評価の全てか?
ならばアニメはいらねぇんじゃねぇの?パチンコでよくねぇか?

なので単体作品としてはもちろん、Q⇒シンという連続作品としても
今一つ出来が良くなかったというのが個人的な評価だ。
つーかQを作り直せ、マジで!

 

しかし僕は満足している。満ち足りている。
そして(評判の良さから)恐らく他のファンもそうだろうと思う。

それはなぜか?
まずは「完結したから」だ。
本当にまずその一点が最大の評価をされているんだ。
そしてもう一つ。これは本当に長いことエヴァファンをやった人にしかわからないだろうが
庵野秀明が幸せであろうことがわかったから」だ。

良く「作品と作者(の性格)は別」ということは言われるが
SNSが発達し、作者側がこちらに降りてくる、こざるを得ないこの時代では
それは幻想でありクリエイターもコンテンツの一部となっている。
少なくともそうでなければ
あるイラストレーターが仮面をつけて両手に剣を持った画像がネットに乱れ舞うことはなかったろう。

ただ、そういったクリエイターがコンテンツの一部となる作品というのはずっとずっと前からあった。
その一つが新世紀エヴァンゲリオンである。

テレビ版エヴァは別の脚本家もいたし、
そもそも新劇場版は鶴巻氏筆頭にいくつもの監督が名を連ねているが
どうあがいてもエヴァとは庵野秀明である。

 

これはあくまで個人的な主義主張だが
クリエイターは出来ればTwitterを使ってほしくない、顔を出してほしくない。
言いたいことは作品を通して言え。と思っている。

だからこそ、作品を通じて庵野監督が全部丸ごと庵野秀明を描いた、
新世紀エヴァンゲリオンという作品が好きだ。

テレビ版はマジで放映しながら作っていた、ということで
物語そのもののテンションが前期後期で大幅に違うように庵野監督のメンタルが反映されている。
特に旧劇場版(以下、EOE*1)に至っては精神の3割3分4厘以上鬱状態で作ってたと思う。

確かにわけわかんなくて一部の濃いエヴァオタの考察を見ないと
さっぱりわからん内容ではあったものの
EOEは言いたいことは全部作品にギュウギュウに詰めて贈ってくれていた。
ただ、ぴしゃりと「オタクは現実に帰れ」と厳しく厳しく言い放っていたが。

 

ただ、当時のオタク達はどうしても別の答えが欲しい、と考察の海に潜り、
あるいは二次創作(FF)という夢へ浸ることとなる。
考察の中で庵野秀明を見出し、庵野はこう考えたのだろう、
当時の庵野はこうだったからこうなのだろう、と
庵野秀明をコンテンツの一部としてみなしていたのだ。
いや、あるいはエヴァを通して庵野秀明を見ていたのかもしれない。

なお、これは庵野考察の余談だが
EOE時のあの訳の分かんなさはアスカ役の声優に振られたから当てつけにそういう作りにした。
という考察が結構大真面目にまかり通っていた。*2
事実は不明だが、そういう時代だったと笑ってほしい。

今になって思えば、
考察や二次創作、そして公式のスピンオフ作品などは
エヴァをあれで終わらせたくない人たち」のあがきだったのかもしれない。
考察を続けることでエヴァを続けたい、というあがきだ。

 

ただ、今回の庵野秀明は少しばかり大人になっていた。
テーマは全く一緒。けれども伝え方に優しさがあった。

僕はこの映画を見て
「そうか、庵野、お前、幸せになったんだな」と感慨深さを感じてしまった。
たかが観客が既に還暦のおじいちゃんに対していうセリフではないのもわかっている。
わかってるのだが思っちゃったもんだから仕方ない。
良くも悪くも観客サイドも大人になってしまったのだ。

EOEから時間がたったことで殆どの人間は
今回の映画で「現実へ帰ったほうがいいよ」と改めて言われるまでもなく
社会に揉まれて現実への適用を済ませている。良くも悪くも。

エヴァQから8年という歳月をかけたのも今考えれば良かったのかもしれない。
幸せになった庵野秀明を大人になった観客がすんなりと受け入れ、祝福さえしてる。

 

そしてもう一つ。
この映画は考察の余地は凄くいっぱいある。
でも、エヴァを考察する価値がなくなった。
そのことが素晴らしい。

明かされてない謎や大量に出てきた専門用語など考察する余地は大量に残されたし、
現代は一周回って考察動画という文化が出てきたことでもまぁ考察自体は出てくると思います。
でもね、もうそういうの良くない?みたいな感情が今僕の中にある。

「さらば、すべてのエヴァンゲリオン」というキャッチコピーは本作の本質だ。
それは劇中ですべてのエヴァをどうする・こうする、という話ではなく
「さらば、すべての(人達の頭の中にいる)エヴァンゲリオンという
エヴァのことをもう考えなくても良いよ、という解放宣言こそが
シンエヴァンゲリオンである。
ファンにも、そして庵野監督にも。

この解放宣言部分について様々なギミックやメタファーを凝らして作られており
様々いる観客それぞれの納得度を高めている。「あがき」をさせないようにしている。
EOE部分の焼き直しも多いが、ラスト30分で急速に畳まれていく展開は非常に良かった。

そのため、本来であれば三者三様、どころでは済まないはずなのだが
皆納得してそれぞれの現実へ帰って行ってる。
大人になった観客が一番に望んだのは「完結」であり「決着」である。
その点については完璧に叶えられたと言っていいだろう。

ま、よーするにだ。
一つの映画作品としてはあまり褒められた作品ではないが
エヴァの完結編としては完璧な作りだった、ということだ。

 

最初は呪いだった。
けれどもこの映画が示したことで呪いは祝いとなった。

おめでとう庵野監督。
あめでとうスタジオカラー
すべてのエヴァファンにおめでとう。

恐らくいろんな人が本作への感想として使用した言葉であろうが、
この記事の前半部分を〆るにはこれ以上ない言葉だろう。
だから恥ずかしげもなく使わせてもらう。

そして、ありがとう。

 

なお、ここまで読んでおいて実はまだ見てないって人が万が一いるのであれば
いいから素直に見て来いよ、と言わせてもらおう。
特にエヴァに囚われてしまった人であるなら。
映画館を出た瞬間からエヴァが無い世界に生きることが出来る、というのは思いのほか気分が良いぞ。

 

 

 


と、いうわけでここまではネタバレ薄めの作品感想。
ここからおもっくそ明確なネタバレ込みでシンジとアスカの話します。
見てない人はマジでけぇれけぇれ!映画館行ってこい!

 

 

 

 

□【ネタバレ】別れも愛の一つだと。

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唐突ですが僕、カプ厨なんですよね。*3

んでそんな自分にとって、シンジとアスカは性癖、なんですよね。
アスカ単体じゃなくて2人まとめて。
勝気だけどメンタル弱い少女と気弱少年カップルってのがすんげぇ~~~性癖。

最近のアニメで言うとホリミヤとかピタリあってるわけじゃないけどスゲェ性癖を擦られてる。
原作サイトとかずっと昔から読んで思い出したようにたまに読み直すくらい好き。

 

ただ、シンジとアスカってテレビ・EOEともにくっついた、とは言えない関係ではある。
特にEOEは赤い海の砂浜でシンジがアスカの首を絞め、
アスカはシンジの頬を撫でた後「気持ち悪い」と言って終わる…
というエヴァ作中屈指の意図がわからぬ謎のシーンで終わっている。

ちなみに当時のエヴァ考察としては
「気持ち悪い」は「また僕を馬鹿にしてよ!」という
シンジの独白を聞いていたアスカからの愛情表現という説もあった。
…かなり高度なSMプレイだコレ…。
もう一度言うがこんな考察が大真面目にまかり通ってた時代なのである。笑ってあげてくれ。

 

しかし、映像展開がなくなった後の
公式スピンオフ作品においては大体くっついてる、くっつく可能性が高いんですよね。
流石にすべてを把握しているわけではないけれど、
別ルートで補完計画を回避したANIMAであったり、鋼鉄のガールフレンド(2nd)であったりとまぁ色々な作品で。

なので、
エヴァという作品のヒロインは綾波レイであろう。でも
シンジのお相手役としての意味でのヒロインはアスカというのが公式なのだろうな、位になんとなーく思っていた。レイ派にはスマン。
特にエヴァに最初に触れたのがテレビ版でもEOEでもなくスピンオフからだった僕としては。

 

さて、なんでこんないきなり性癖の話をするのか、映画を見ている人ならばわかるだろう。

シンエヴァにおいてシンジとアスカは別の人間とくっつく形となる。

ただ、くっつくというには直接的な描写もなければ一切の積み重ねも無いため、
本当にくっついたのか?というのも割と謎であり、
別の相手とくっつける、という意図しか見えない急造カップルである。

特にアスカの方は相手側のキャラ人気が全くないので
カップル絵とか全く増えねえだろうなって印象がある。
恐らく多くの人にとって嫌いじゃないけど好きじゃねぇ、というプラマイ0のキャラだし、
何より描写もまともにないし。
少なくとも俺のカップリングセンサーには一ミリも触れねぇ。
馬鹿な、ヘッドロックかました!同じコマにいた!ただそれだけしか接点が無い
鬼滅の刃のぎゆしのにはビンビンだった俺のセンサーがよぉ!

 

まぁ…当然ショックではありました。
シンエヴァ本編中にしっかりと積み重ねを描いているならともかくぽっと出すぎるので。

一応、作中の意図は分かるようになってます。
綾波シリーズがシンジの好感を持つよう設定されている、ということがアスカの口から言われていて
同じくクローンであることが判明した○波シリーズであるアスカもまた同様の設定がされているのであろう。
ゆえにアスカがその呪縛を破り、シンジ以外の他人に好意を持つ、ということが良いことであることもわかる。
(ただそうすると真希波はどうなんだいっていう別の疑問も浮上するが)

 

ただ、ショックではあったもののそこまで怒る…というか騒ぐ気がしないのは
シンエヴァ劇中での赤い海の砂浜のシーンのおかげである。
先述のEOEの首絞めシーン、この回収を行ったのだ。
割とこれだけで「あ・・・庵野が優しい!!!」と満足してしまったんだが、
良かったのはこのシーンでのシンジのセリフ。

このシーンの前にアスカは「(破の時点で)アンタのことが好きだった」と言い、
シンジもまた、あのトラウマの赤い海の砂浜で「アスカのことが好きだった」と言った。
あの時の「好きだった」という気持ちを双方が否定しなかったことがすげー嬉しい。

メタ的に言えば
スピンオフ作品や二次創作は「エヴァを続けさせたい」という人たちの気持ちの表れで、
続けたい人たちはシンジとアスカがくっつくことが常道だと思っていた。
だからこそ、庵野監督がエヴァを未練なく完結させるために
この二人が別の相手と結ばれることを選んだのだろう、と思うのだけれども。

けれども、庵野監督が当時2人の間に好意があったことを明言してくれたことが嬉しい。
赤い海で描いたことを見るに、あの一見…
というか何度見ても意味不明な首絞めも「気持ち悪い」も
(一応)愛情があったうえでのことなのだと受け取った。
…かなり高度なSMプレイだったコレ…。

 

エヴァとは全く関係ないんですけどこの記事を書いてる途中でフォロワーが
らきすたスゲーハマったけどなんであんな好きだったかわからん」ということを呟いてたんですね。
人によってはエヴァもそういうポジションだったかもしれません。

「好きだった」の後には往々にして「けど今はそうでもない」という言葉が続きます。
けれども二人は言い切った。言い切ったんですよ。

愛という漢字は心を受け取ると書きます。
シンジとアスカがお互いの心を言って、受け取って、思い出に変えた。
俺がこの二人を「好きだった」という事実を否定せず肯定された気がして
なんというか、救われたなァ~としみじみ思う。

「好きだった」は別れの言葉かもしれません、でも訣別の言葉ではないんです。
まさに別れも愛の一つだと。

・・・まぁもちろん、普通にシンジとアスカがくっついてたら
庵野庵野!と絶賛してた可能性は高いし、未練もチョッピリある。
けれども、なんつーかね。救われちゃったからね。仕方ない。

 

 

…シンエヴァンゲリオンを見て、今、自分の心の中で
彼と彼女が歩くような速さで思い出に変わっていくのがわかる。
これはきっと、今まで一緒に歩いてきた二人が歩みを止めて
自分は現実で歩いて生きているからだろう。

たまに振り返るかも知れないけれど、思い出に変えるために僕も言おう。
僕も、この二人が「好きだった」、と。

 

作中でサヨウナラ、とは「また会うためのオマジナイ」と言われている。
だからこそこの記事はこの言葉で〆たいと思う。

さらば、エヴァンゲリオン
そしてサヨウナラ、シンジとアスカ。

 

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*1:The End of Evangelionの略

*2:あんたなんかに殺されるのはまっぴらよ。というセリフを変えたのは本当だが、振られた云々はソース無。

*3:カプ厨(カップル厨)とは、(同性・異性関係無しに)何でもかんでもカップリングしたがる行き過ぎた人